2014年05月24日

TEKLIFE FOREVER-DJ Rashad & DJ Spinnインタビュー

以下の記事は4月29日にアメリカの音楽メディアSPINのウェブ版に掲載された、DJ RashadとDJ Spinnのインタビューの日本語訳です。インタビュアーはシカゴの音楽ジャーナリストJessica Hopperさん、翻訳はBooty TuneのYukiaka3Dが担当しました。

彼らのDJ・プロデューサーとしてのキャリアを振り返るような内容で、これまで知られていなかったような貴重な話が満載です。冒頭ではDJ Rashadが日本のフットワーク・シーンの印象を語っています。翻訳を当サイトへ掲載することを快諾してくださったJessica Hopperさんに感謝いたします。

オリジナルの記事はこちら

Teklife Forever: DJ Rashad and DJ Spinn Reflect on Footwork's Chicago Origins, Global Spread

http://www.spin.com/articles/dj-rashad-dj-spinn-interview/


(:徳永 )


TEKLIFE FOREVER

DJ RashadDJ Spinnが語るFootworkの起源や世界的広まりについて

Interviewed by Jessica Hopper (@jesshopp)

Translated by Yukiaka3D (@Yukiaka3D)


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この記事は故人を讃える為の物ではありませんでした。この記事はRashadSpinnがどうやってローラスケート場のパーティーからやって来たか。この年が彼らにとってどうなり、20年たった今、どうやって彼らの目標へとたどり着くか。どのようにしてサウスサイドだけに留まらず、日本で大きな存在になったか。この記事は昨年Rashadが彼の事を殺しかねなかった事故に見舞われた時、二人がどんな気持ちだったか。それを伝える為の物でした。

Rashadには人としての魅力があった。彼以上に魅力がある人なんているのでしょうか?彼が20年間の活動の中で抱いていた感謝の気持ちや熱心さはあなたが想像できないぐらいの物でした。そして彼は驚くほど謙虚でした。

Rashadは、Frankie KnucklesCurtis Mayfieldのように、永遠に壊れたままであるシカゴという街の人々の魂を元気づける音楽をつくりました。彼が作り上げたサウンドは街の若く活力に満ちた音となりました。彼の音楽には人々を癒す力があり、団結させ、あなたを取り巻く現状や問題、辛い出来事から解放してくれました。FrankieCurtisのように、彼には天性の才能があった。彼の音楽はシカゴの夏の音であり、夜の音であった。楽しんでいる時の音であった。彼の音は愛を返してくれないこの街の熱い鼓動だった。

Calumet Cityにある木製のパネルが敷き詰められた彼らのスタジオで、SXSW用の準備が終わっていないスーツケースや、未だに封の切られてない彼らのキャリア初期のフライヤー達に囲まれながら、3月半ばの昼下がりを共に過ごしました。私の心は地元への誇りでいっぱいだった。浮ついてさえいた。彼らの友情や音楽はもちろん、彼らの成功の話を伝えられる幸運な人間だと感じていた。


しかし、Rashadはもういない。彼は歴史となってしまいました。



SXSWではいくつ公演をやる予定ですか?

Rashad(以下R: 7つかな?あそこには火曜から金曜までいるからね。たくさんだよ。

Spinn(以下S): (数えながら)8つだね。


ここ数か月間、忙しい日々を過ごしているかと思いますが、今起こっている全ての事に関してどのような印象を持っていますか?

R: とてもすばらしいよ。本当に最高。良い気分だし、音楽も最高。ファンの人たちも最高だったよ。本当に素晴らしい気分。これは大変な仕事だけど、とても素晴らしい贈り物が最後には待っている。人々に会うだけで、わかんないけど本当に気分が良いんだ。恵まれているって言った方が良いのかな。俺は丁度この前初めての東京から戻ってきたんだ。東京には大きなフットワークのシーンがあったよ、とても素晴らしかった。俺達が取り組んでいる事をやって、それを更に高いレベルに上げている人達を見るのは最高だね。


東京の事について教えてください。行く前からそういったシーンがあるのは知っていましたか?

R: 俺たちは前々から日本のメインレーベルであるBooty Tuneとは連絡を取り合っていたんだ。フットワークをベースにしたレコードレーベルで彼らはシカゴのアーティストを沢山抱えているよ。シカゴには数回しか訪れてないけどね。

S: Juke Festには来てくれたよ。

R: 彼らフットワークできんだぜ!


貴方たちがとても長い間取り組んできた事が愛されているのを見るのはどんな気分ですか?

R: 最高だよ!本当に最高だ!!

S: 俺らはダンサーあがりだし、他の人達が自分達の音楽で踊っているのを見るのはね!言葉にならないよ。


彼らが貴方たちの音楽に対して感謝しているのを目の当たりにしたのですね。

R: 感謝するとかそれ以上の事だった。とても光栄だよ。俺が彼らと一緒にダンスしてる動画も見せてあげられるよ。あの時のパーティーは本当だったら5時半に終わるはずだったんだ。だけど彼ら帰りたがらなくって、最終的に終わってステージを降りたのは朝の8時半だった。

たぶんやめなきゃ帰らなかっただろうな。彼らはとても大きな愛と尊敬の念を見せてくれたよ。本当に素晴らしかった。


フットワークが持っている力の証ですね。貴方が今言ったようにあなたとあなたの仲間がやってきた事が、こうしてフットワークの全てを愛する人々を通して世界中に伝わっています。

R: 全てだ、本当に全てを愛してる。(笑)マジでデカいシーンだったよ。日本はわかってた。ロンドンはダンサーを取り込んだすべてのカルチャーをわかっていなかったんだ。もちろんその必要はない。だけど日本はわかってた。彼らはダンスもわかってたね。

誤解しないで欲しいんだけど、ロンドンも俺らの事を愛してくれてるんだ。俺達は人々が楽しみたいように楽しんで欲しい。フットワークをしなきゃいけないわけじゃない。だけど日本の彼らにとってフットワークはなきゃならない物なんだ。彼らは毎週末フットワークをするし、フットワークの大会だってある。シカゴみたいね。しかも超アツいんだ。見ているだけで良い気分だよ。歴史を守ってそれを国際的にしている。そんな事が現実に起こるなんて誰が思う?本当に最高だよ。


では歴史という所から始めましょう。この歴史が貴方たちにとって始まったのはいつですか?どの段階で今やっている事をやると気づきましたか?

R:(笑)

S: 歴史は常にそこにあったよ。(笑)だから俺らが出会ったんだし。基本的ね。


貴方たちの出会いについて教えてください。お互いの事をどう思いましたか?

R: 元々街で顔見知りではあったんだ。きっかけはThe Rink(シカゴにあるローラースケート場)っていう所でディスコパーティーが開かれていて、俺達はクラブには入れなかったから、そういった子供たちがそこに集まってたんだ。昔はよくダンスをしたよ。同じグループにはいなかったけど、お互いの事は中1か中2くらいの頃から知っていた。そして高校に上がった時、最終的に一緒になったんだ。一緒にホームルーム受けてたんだぜ?(笑)

S: 俺はRashadの事はDJで知っていたよ。DJとダンス・・・・それを同時にやるんだ。(笑)ブースにいてミックスしてる最中に下に降りてきて踊るんだ、んでまた戻っていく。


どっちが得意でしたか??

R: 昔? たぶんDJだね。(笑)

S: 俺には彼は下手だったとかスキルが無かったなんて到底言えないよ だってその頃の俺は彼を見て「すげぇな・・・」って感じだったし。(笑)

R: 何が面白かったって、つるみ始めた頃Spinnの奴「ああ俺はDJだ。」って言ったんだ。だから俺が「いいね。どんなの持ってるか見せてよ。」って言ったの。(笑)なんのテープだったっけ?

S: 俺はただテープを二つセットしてやるだけだったんだ。実際のテープを使ってミックスして(笑)、他のテープから他の曲を混ぜてた。The Rinkに行く一週間前に発表されたトラックが入ってるテープを持っていたんだ。それで「どうやって曲を手に入れたの?」「テープからだよ。」「レコード持ってないの??」「ないんだよね〜」って会話になって(笑)ターンテーブルは持ってたからレコードの事は知ってたんだけど、どこでどうやって手に入れるかわかんなかったんだ。そしたらRashadが「俺んちにいっぱいあるよ。」って。「マジかよ!?」って感じだったね。

R: それで俺の家に連れてきて二人で始めたんだ。


彼、覚えるのは早かった?

R: うん。だけどその時点でビートは作ってなかったね。その時の俺達はDJしてただけだったよ。彼には生まれつき才能があったんだね。


あなたがSpinnを家に連れてDJを始めましたが、どうやってそこから外でプレイするようになったのですか?2人の子供が外のターンテーブルに行きつくまでは本来ならとても長くかかると思いますが。

R: それなんだけど、俺は子供の時The Rinkで働いていたんだ。あそこでDJもして、Spinnもそこで働いてたんだよ。The Rinkの人達は俺達に土曜と火曜と金曜をまかせてくれたんだ。


The RinkでのDJはあなたたちを有名にしてくれました?

R:(笑)ああ、そうだね。俺らの年代じゃ俺達は間違いないって言われるような存在だった。The Rinkから始まって全てのスケートリンクに行ったよ。最終的には色んなリンクで色んなDJ達にあった。俺は12歳の時に本格的にDJを始めたんだ。KKCっていうカレッジラジオのオーディションに応募してね。KKCでは金曜と土曜の夜に子供にプレイさせる番組があったから、それで俺はSound Wavesって番組とFriday Night Audioって番組に応募したんだ。そこにDJ Gant-Manがいた。DJ NehphetsJana Rush とかLaTelle とか他の人たちもいたよ。たぶん11~12人ぐらいは所属してたんじゃないかな。そう、そこでGant-Manに出会ってPual Johnsonとか俺達が曲は知っているけど作った本人だなんて知る由もなかった人と沢山出会った。誰が誰だって知って浮かれたね。

MiltonDeeon。俺のアイドルだよ。そしてそうやってKKCで全ての人達と繋がるようになったんだ。

S: 俺は彼らのDJをずっと聴いていたんだ、でも彼らが本当にその人たちだなんて知らなかった。その後「KKCDJしてるやつらみんな俺が好きな人達だ!」って。彼らは俺がずっと聴いてきた人達そのものだったんだ。

R: 俺達若すぎてあんまパーティーも出来なかったしね。(笑)


その当時はどのくらい遅くまで外にいれたんですか?

R: DJをしたり理由があった時は夜中の12時から午前2時かな。その当時DJになるにはレコードを持ってターンテーブルを持っている必要があったんだ。もし持ってなかったら他のDJ達からの尊敬は得られなかった。みんな「どんなの持ってんのか見せてみろよ」って感じだったし。今は変わったね。昔は本当に大変だった。そういう人達に本気だと思われなかったから俺はダンスをやめたんだ。


どうやって彼らに本気だって証明したんですか?

S: 俺らが知ってる奴らはみんなスタジオを持っていたんだ。みんな俺達より年上だった。何人かは違ったけどみんなそうやってキャリアを進めて行った。俺達は若かったし他の人達がなにをやっているかなんて知らなかった。考えもしなかったし。それで最終的に自分の機材を手に入れる事にしたんだ。

R: 自分たちの機材をゲットして、DJもまだしていた。それが俺たちのプロデューサー業を更に高いレベルにしてくれたんだ。俺達は音楽を流していたけど、音楽も作りたかったんだよね。そしてそれを流して、ダンスしたかったんだ。

S: 今言ったような事は大体2年間で起こったことだよ。96年から97年。俺がやった初めてのパーティーはRobbinsって所でのだった。96年の初期にね。それが最初だったよ。


曲を流す側から曲を作る側に移行するのは自然な流れだったんですか?

S: そうなる必要があったんだ。だって当時はみんな曲作ってたし。

R: 必要に迫られたことだった。俺のキャリアはドラムを演奏するところから始まったんだ。ジャズバンドに所属していたんだよ。音楽は俺の人生の一部さ。まぁいいとして。ビートを作る限りなんというか、どうにかしてドラムマシーンやサンプラーを買って試さなきゃいけなかった。てかそうしない理由がない。俺達は他の人たちの曲を聞いて影響を受けてきて、もちろん自分らのアイディアが一番だけど、どっかしらサウンドを似せようと努力していたんだ。だって彼らのスタイルに感銘を受けて彼らに憧れたんだからね。俺はDeeonをよく聴いていたから彼のサウンドになるよう何度もトライしてた。

S: 実際はどんな機材を彼らが使っているのか知るのさえ時間がかかったよ。当時はそういったMPCや他の機材を紹介する雑誌なんてカタログをゲットしない限り無かったしね。俺の叔父さんだったか誰かがプロ用の機材カタログを持ってたんだ。それでそっから連想して「これボーカルチェンジャーかな?」って予想してその機材を試すのさ。

R: そうやっていく内に色んな人に出会って「これをゲットすべきだよ」とか教えてもらったんだ。だけどダンサーたちも助けてくれたよ。


そういった周りの人たちからのサポートは突然のものだったのですか?

R: 友達はサポートしてくれてたと思う。何人かは良いじゃんって言ってくれたし、でもどう思われたって俺らには関係なかったね。

S: 俺達はただ音楽を流したかっただけなんだ。

R: もちろん友達は気に入ってくれた。それこそ俺らが気にすることだったしね。彼らはダンサーでもあったから気に入ってくれたんだよ。そしてそれがDeeonMiltonRP Booといったレジェンド達と出会う大きなキッカケになったんだ。ダンスしていた俺達が最初に所属したグループ、友達はみんな同じダンスグループだったんだ。


そのグループの名前は?

R: 俺達の最初のグループはHouse-O-Maticsだよ。もしお前がHouse-O-Maticだったら、お前は最高の男なんだ。わかるだろ?

S: 彼らはテレビに出てたしツアーもしてたしな。

R: 毎年The Bud Billiken Parade(シカゴで毎年行われる最も歴史があり尚且つ全米一の規模を誇るAfricanAmericanのパレード)で彼らは勝ち進んでいった。マジでアツかったよ。

S: 彼らがパフォーマンスすると完全にショーだったんだよ。

R: House-O-Maticはよく51丁目のThe Elks(おそらくGreat Lakes Elks Lodge)でパーティーを開いていたんだ。俺達はそのパーティーにダンサーとDJとして参加していた。Ronnie SloanっていうHouse-O-MaticのリーダーでよくDeeonSlugoとか有名なDJ達をブッキングしていた人が俺やSpinnRP Booにもやらせてくれてたんだよ。


その頃あなたは何歳くらいだったのですか?

R: たぶん1516かな。


興奮しました??

R: いや、準備は出来ていたよ。俺らが待ち望んでいた事だったしね。そうやって彼がパーティーをこの郊外で始めて、そうそうあのポスターだよ。(壁を指さしながら)97年のだな。あれには俺行けなかったんだ。その時はLincoln Challenge Boot Campってのに居てね。高校には行ってたから。Thornwoodっていう。まぁどうでもいいんだけど(笑)俺達はこの郊外でパーティー始めて客はここまでやって来てたんだ。マジでハンパなかったんだよ。

S: その頃彼らは客をバスで市街から郊外まで送り届けててね。その事は当時知らなかったんだけど。でもそのパーティーの一員だった事は嬉しく思うよ。パーティーを一緒にやっている人達がいて、ギャラも少し貰えた。そんな事は想像もしてなかったんだけどね。

R: でもそんな事が起こると知っていたとしても俺達には関係なかったね。俺達が憧れ尊敬したDJ達と一緒に出演できるだけで幸せだった。そして最終的にはDeeonみたいな名だたるDJに代わってメインを任されたんだ。俺とRP BooSpinnでね。本当に良かった。なんというかそう、最高だった。

S: そのパーティーは最初300人くらいだったけどDolton Expo Centerでやったときには4000人までいったんだ。コンサートみたいだったよ。しかも音楽はハウスだけ。その頃はジュークなんてない頃だから、本当にゲットーハウスだけだった。それでただ全員パーティーを楽しむだけだった。


サウンドと言う点に関して、あなたは何か行っていましたか?純粋に人々を踊らせたいだけでしたか?

R: まず、ダンサーとして、俺達は何を聞きたいかわかっていた。ベースがあってクラップがあって〜

S: 速くてね。

R: そうする事で音に合わせて動くことが出来るんだ。何か俺達がやった事ないような事をしたくなる、インスピレーションを与えてくれるエネルギッシュなサンプルを使ってね。

S: パーティートラックを使う事が多かったよ。みんなそれ以前は色んな種類のハウスミュージックでフットワークしていたんだ。ゲットーで品がなくて生々しい、PJみたいなスタイルの物でね。

R: “Chase me” それが代表的な曲だよ。

S: あーやばいな。 Chase Meはホントに変えた。

R: 全て変えちまった。ベースが歪んでて、それに見てみろ。

S: あれは史上最高にシンプルな曲だ。

R: 史上最高にシンプルだよ。あれってこんな感じで(二人で歌いながら)「ぶぅんぶぅんぶぅんぶぅんどぅっどぅっどぅ〜♪」(笑)そして全てのダンスはあの曲に追従するようになったんだ。マジでアンセムだよ。ホントに全てを変えちゃった。


その曲に対して貴方たちはプロデューサーとしてどんな反応をしましたか?「これをやんなきゃ」ってなりました?

S: なんというか俺達のスタイルは中間だったんだ。RP Booが裏拍でクラップを取るスタイルを持ち出した。

R: 俺達のはハーフタイムで取るスタイルだった。ハーフタイムのを俺達の曲ではずっとやっていて、彼は裏拍でやった。だから中間さ。RPのとPJのね。両方のスタイルを混ぜて一緒にしたんだよ。そのスタイルで俺達はやってきた。


あなた達の音楽のスタイルに対して人々はどんな反応をしていましたか?

S: 俺達はある時期までスタイルを変えず伝統を守っていたんだ。テクノロジーが理由なんだけどね。The Bud Billiken Paradeは毎年行われるハウスミュージックのショウケースだった。街の上から下どこにいても聞こえるんだよ。

R: だけどあの頃のパーティーと言えば、警察に中止させられるし大変だった。今みたいね。発砲もあったし、95~99年の間は酷かった。俺が思うにあの頃からどんどん酷くなっていったんじゃないかな。ギャングとかの事だよ。あの頃は組織的だったし。マジで狂ってたよ。影響は無かったけど、ある面ではあった。でも俺達はやっぱり音楽が好きだから色んな場所に行き続けるだけだった。やめる事は無かったね。でもなんというか、人々はいつも音楽を愛し音楽と共に散々な目に合う。特に中西部ではね。だけど一度国際的になれば俺達には届かない人達がインターネットを通して聴いてくれる。シカゴだけじゃなく外の国からも注目を受けている限り海外でのリリースとかも重要になってくると思うけど。


特に過去8年から10年、シカゴから飛び出すのはとても大変な事だったと思います。カニエの手が選ばれた人達に対して差し伸べられない限り、他に飛躍する術はなかったかと。

R: 確かにね。おかしい事さ。07年から08年ぐらいからMySpaceを通して国際的に知られるようになったけど、ある時点までは全てレコードでやっていた。だけど9/11があって、全てをダメにしちゃったんだ。みんなレコードを買わなくなったし、色んなクラブは閉店するし。新しい技術も出てきてCDJやダウンロードも出てきて、ターンテーブルとどちらを選ぶかっていう葛藤もあった。でも新しい技術に新たなステップを見出せたんだ。だって俺達は自分の音楽を作っていたからね。99年に潰れちまったダンスマニアからはもう未発表なんて出る事も無かったし。全てがデジタルになっていった2003年ごろ、俺達ともサインしたデトロイトのGodfatherがレコードとダウンロードのリリースを両方やっていたんだ。彼とサインして名前が知られるようになっていった。

そして07年から08年ごろ、人々が付いてくるようになって、俺達に連絡してきた最初の内の一人であるイギリスのヘッドハンターが「お前の曲は最高だ。」って伝えてきたんだ。彼はダブステップをプレイしていた。そして2009年にFootcrabがあった時にやって来て、Mike Paradinasが俺達みんなをBangs & Works Vol. 1の為にサインしてくれた。Ghettoteknitianz、俺達のアルバムだった。Spinnのであり、俺のであり、Traxmanのであり、注目はそこからだった。

S: 多くの人がMike Paradinasの事を尊敬しているよ。彼が人々の耳をフットワークへ向かせたんだ。


その頃、シーンがある証拠なんてありませんでした。一つの事が好きだったら他の事を知るのに努力する必要はない時代ですし。

R: アルバムもごちゃまぜだったしね。好む人もいたし、嫌う人もいたよ。

S: ホント嫌ったな。


なぜですか?

R: なんでかって?(笑)みんなそれぞれの意見があるからさ。この位の事しか言えないよ。沢山の人が音楽の内容だけでなくサウンドも聞いたんだ。フットワークの多くは録音やマスタリングがきちんとされていなかったから、いくつかの曲は本当に酷かった。サウンドシステムじゃ良い鳴りをしないしね。だから人によってはプロダクションが最悪のジャンルだったし、ワンパターンとも捉えられたんだ。

S: クオリティだったんだよ。みんなクオリティの事なんて理解してなかった。スタイルもプロダクションも違ったんだ。これはシカゴミュージックだ。シカゴミュージックは人々に荒々しい音を届けた。そしてそれこそが最もリスペクトされている点だった。ほとんどの物はきちんとマスタリングされたり綺麗なサウンドにされていなかっただけなんだけど。


クオリティという面でハッキリとあなた達がやっている事はなにかありますか?

S: もちろんクオリティにはプライドを持っているよ。引き締まった音になるべくたくさんのベースを乗せてね。乗せ過ぎない範囲で。

R: 彼が言ったような事は新たな機材や技術が可能にしたんだ。90年代じゃ今やっているような事は出来なかった。

S: スピードあげてChipmunkみたいにしたり遅くしたりなんて出来なかったんだよ。(笑)


俺達はモニタースピーカーなんて知らなかった。コンピューターのスピーカーとサブウーファーだけだったよ。

R: みんな何も教えてくれなかったし、自分たちで学ぶ必要があったんだ。

S: 俺達はラッキーだったよ。だって俺達も他の奴らみたいにミキサー宅に1万ドルくらい注ぎ込んでいたかもしれないしね。よく「お前がホントにスタジオで作ったみたいな音を作りたいならこれ持ってなきゃダメだ。」っていう奴がいたけど、当時の俺は「んなもんいらないよ。Cakewalkでずっと行く。ミキサーもあるし、俺にはこの音が良いんだ。」って答えてた。(笑)


多くの年月を共にして新しく、尚且つサウスサイドの要素を持ったものを作ってきましたが、それまでやっていた事に対してどのような影響を与えましたか?

S: 俺らが高校を出てアーティストとして大きく成長していた時にはまだ仕事をしていたよ。


なんの仕事ですか?

R: 俺はFordで車の運搬をやっていたよ。んで俺はSpinnも雇った。Office Maxってとこでは運送をやってた。それでしばらくして働くのをやめたんだ。その後は仕事にありつけなくて、だから音楽に集中したんだ。

S: そしたらフットワークのクルーの連中が俺らの所にやって来て「俺達にはお前たちが作る音楽が必要なんだ。俺らの周りにいてくれよ。こういうのもかっこいいけど、俺達にはお前らが必要なんだ。」って。だから手伝う事にした。

R: その頃の俺はどっちかと言うとデトロイトっぽい物を作ってたんだ。シカゴの外からのブッキングを得るためにね。そうやって成功しようとしていた。フットワークはいつもやっていたし、新しい事にチャレンジもしたかったんだ。だからゲットーテックや売れ線のジュークを始めて、4年連続でDetroit Electronic Music Festivalにも出ていた。その頃の俺にとってそれはとてもデカい事だったよ。そんな時にフットワークの奴らは俺らの所にやってきて「戻ってこいよ。そんなの間違ってる。」って伝えてきたんだ。俺からしちゃ「戻るってどういうことだ?」って感じだった。

S: 俺はサウンドシステム持ってたから、もう知るかって感じでフットワークのダンサー達と一緒に企画して場所をゲットしたんだ。音楽を持ってやって来て俺達の為のステージを毎週末作った。新しい曲や新しいダンスの動きを生み出すためにそこを解放して自由に出入りさせて、本当に楽しかったよ。

R: 俺がフットワークに戻ってきたのは2009年だ。2008年の12月にSpinnに会って「俺は何をすべき?俺には何がたりてない?」って言ったんだよ。(笑)


あなたが戻ってくる気になった理由は彼らに触発されたり新しいDJ達と競い合いたくなったからですか?

R&S: (笑)

なぜ笑っているのですか?

R: 俺が戻ってきた理由は彼らに戻ってきて欲しいって言われたからだよ。

S: 他の人達をディスするつもりはないけど、ダンサーたちが本当に求めてたんだ。

R: ダンサーの視点からすれば、他の誰かのではダンスできなかったんだね。


音楽的にはどういう返答を出しましたか?

R: (笑)俺のカムバックは”I’m Blowing Like the Wind”だよ。そっからは一度も立ち止まっていない。あるパーティーでそれをプレミアして、MySpaceに乗っけたんだ。その頃はまだジュークのDJもしていたけど、その後はフットワークのシーンに戻って行った。その頃いたのは俺とSpinnChi-BoogieTraxmanとあと若い奴ら数人だったね。


”I’m Blowed” JUKEWORKZ (2009/JukeTrax)に収録)


その頃のあなたはFootworkが海外でも通用すると思っていましたか?それとも本当にそれはシカゴの為だけの物としてやっていましたか?

R: 通用するとはまだ思っていなかった。だけどアイディアはあったよ。パリはここ以外でゲットーテックが人気の街で、DJ FunkGant-manPaul Johnsonたちをブッキングする場所だったからね。でも当時は彼らが生で混じりっ気のないフットワークへの準備が出来ているとは思わなかった。彼らの好みはどっちかというと馴染み易いParty-BassBooty-Musicな曲達だった。だからフットワークに戻った当時は本当にシカゴの為だったよ。他の都市の事なんて考えた事もなかった。俺はただ昔から一緒に踊ってきた仲間達をレペゼンするために戻ったんだ。


シカゴの為だけであったものが、その段階を超えて以前までの状態をひっくり返したのは何でしたか?

R: シカゴの外がひっくり返したんだよ。U.K.の話に戻るけど、Planet Muとサインした時、俺にはMarcusっていうブッキングエージェントがついて、それで俺の初めてのツアーがロンドンとヨーロッパで2010年に始まったんだ。そして俺とSpinnのも始まった。チャンスを掴めたであろう他にいる全てのDJを差し置いてね。次に何を予期すればいいかわからなかったよ。


あなたはFootworkの親善大使です。あなたが人々を招き入れる必要があったんです。

R: あぁうん。俺達が突破口にならなければいけなかった。


どんな気分でしたか?

R: 良かったよ。手応えあった!って感じ。俺達、彼らはもっと売れ線のものを欲しがると思っていたんだ。だけど彼らは荒々しいのを欲しがった。だから俺達「よっしゃ!好きな事できるじゃん!いいね、最高。」って感じだった。こっちに戻ってパーティーしているみたいで、何が良いのかわかってたよ。

S: でも彼らはただ音にのってパーティーをしていたね。何人かはフットワークしようとしていたけど、彼らのほとんどはただ音楽を聴いているだけだった。

R: あと彼らはジャングルと結び付けていた。テンポ的にね。だけど実際はちょっと違う。あっちのBPM170でこっちは160bpmだ。だから近いんだけどね。どこに行っても俺達は突破口になる必要があったんだ。


UKには定期的に戻る必要がありましたか?

R: 2010年から俺達は戻るのをやめてないよ。戻る度に良くなっている。とても大変で、俺達にとってチャレンジだったけど、俺達がどんなにシカゴを代表して俺達のやっている事を表現したかったか、そして人々に見せて「これをチェックすべきだ」と証明したかったか。俺達のゴールはパーティーをロックする事だった。DJとしてそれがどんな集団であろうとダンスさせるのが俺の仕事だ。

S: 全てのショウで俺達は学んだよ。他のDJがどんなスタイルでプレイしているのかを見て自分達を変えていった。ジャングルが彼らのやっている事なら自分たちのセットに更なるスパイスを加えるんだ。あと俺達はマイクを持つ人があまりいない事に気づいた。もし彼らがマイクを持てばジャングルやダブステップをよりメディア向けの形に出来る。


あなたがマイクを持つときはどんなことを伝えますか?

S: なんでも。すべてさ。どこにいるかとか。聴いている人達に俺達がプロである事をわからせなきゃいけない。俺達は彼らにどう伝えれば良いかわかってる。

R: マイクを持つのは聴いている人達を熱中させる助けになるんだ。俺達は他のつまんないDJに代わって彼らを楽しませて満足させるためだったらどんな努力でもするよ。

S: 以前は聴いている人達はただ俺達の事を見つめているだけだった。それが最初さ。ただ見てるだけ。まぁそれでも会場を離れないだけ良いんだけど、でもそれが最良とは言えない。だって彼らは見つめているだけで俺達はDJしているだけだ。わかるだろ?だからマイクを持って「さぁ踊ろうぜ!」って。そうすると聴いてる人達は「わかったよ」ってなるんだ(笑)

R: 時にDJはフロアにいる集団をコントロールして聴かせる用意をさせなきゃならない。少なくとも注目を得るまではね。


では、地元で起こる事に何か変化はありましたか?よくシカゴのアーティストから地元に戻っても特に何か変わる事はないと聞くのですが。

R: あぁ間違いないな。(爆笑)

S: 一つ変わった事と言えば、俺達が世界をツアーする前にはDJした事なかった場所でもプレイするようになった事かな。たとえばAdrian’sとか(Markhamにあるナイトクラブ)。通りを上って行った所にあるんだけど、あそこでは設立以来DJをした事は無かった。ありがたがられないんだ。もし俺達が自分達のやっている音楽のセットやったら、たぶん良い感じにはなるだろう。だけど俺達の音楽はこういう都市のシーンじゃ喧嘩の原因になるんだ。これは俺らが地元で活動していた時からだよ。ジュークはプレイできるけどすこし注意深く選曲しなきゃならない。さもないとやっかいな事になる。若い奴らは21で俺達の音楽で育ってきた。彼らもわかってるんだけど・・・


喧嘩?本当ですか?

R: ほんとだよ。ずっと見てきた。みんなテンション上がり過ぎちゃうんだよね。

S: 俺だって見てきたよ。俺が知り合いの誕生日パーティーに行ったらそこにいた人達が「DJ Spinnが来てくれたぞ〜!」って、それで延長してジュークのセットをやるんだ。それはいいんだけどね。だけど2つの事が起こる前にその状況を変えなきゃいけない。フロアに誰もいなくなるのと、喧嘩が始まる事。10回に9回は喧嘩が先に始まる。


それはシカゴのDJにとって難しい課題ですね。

R: 誰かにぶつかったり。

S: 他の人の女を掴んで踊ったり。

R: もしくは他の人の男だね。

S: 色々さ!みんながダンスフロアにいる限りダンスは続いていく。しかしそういった事が起こった時は正しい選曲をしてみんなを落ち着けなきゃいけないんだ。だからジュークはしばらくの間ダウンタウンから締め出されていたんだよ。


では、シカゴの音楽に関してシカゴの外の人達が一番誤解している事はなんですか?

R: シカゴの外の人間がわかってない事は、シカゴで起こっている事はマジだって事だな。みんな何故こんな歌が歌われているのかわかってない。だから他の場所でこういう歌を歌って”300”3hunna Chief Keefがレペゼンしている事でも有名なシカゴのBlack Disciplesに属するギャング)みたいに振舞ってる。みんなジョークだと思っているけど、Drillという音楽で歌われている事は全部本当だってみんなわかるべきだ。シカゴに来て3hunnaなんて言ってみろ、撃たれるぞ。

S: あいつらハッキリと本当の事だってわかる様には歌ってないからな。それと俺達にはDrillから派生したBop Musicがある。Bopはダンスの事を歌っているし、俺は応援してるよ。

R: シカゴの外だと、シカゴにとってネガティブなものしか取り上げられない。シカゴにはもっといろんな物があるんだ。勘違いしないでくれ。シカゴではポジティブな事も続いているよ。


シカゴの人達はあなた達から何か『目に見える物』を欲しがったり期待をしていると思いますか?

R: 彼らは俺達がどんな人間でどんな事をしているかちゃんと見てわかっている。しかし彼らがそうする理由は俺達がDJであって俺達から利益を得る事が出来るからだ。だけどなんというか、俺達もシカゴの人間だからな。(笑)別に冷たく突き放すとかそういう意味じゃないけど、俺達もこういう事が起こっている同じ街の出身だ。彼らは俺達の事をフットワークを通して知っていて、俺達は自分達がやっているフットワークに関する事を代表している。この街からね。


それではこれが最後の話題となるのですが、前回インタビューした際、私たちはあなたの事故に関して話しました。あの時Rashadは「事故が物事に対する見方を変えて、今起こっている事にとても感謝するようになった。」と言っていました。Spinnにとってあの事故はどんなものでしたか?

S: あれなー。Rashadは俺の家に来る途中だったんだよ。空港まで送る為にね。だけど1時間たっても何にも連絡が無くって、でRashadの親父だったと思うんだけど、彼が俺に連絡付けてきて彼が事故にあったって教えてくれたんだ。「oh my god」って感じだった。もう病院に直行さ。(笑)着いたら看護師たちから治療を受けてて、んでこいつ囁くような声で「よお、あのトラック終わった?」って最初に言ったんだ。(笑)だから俺「そんな事考えてる訳ないだろ!!」って(笑)、大丈夫かどうかが一番気がかりだったんだから。(笑)

R: 病院の連中に色んなもん受けさせられてて、その時はたぶん薬のお蔭だけどすげー良い気分だったんだよね。みんな俺達の所に来て「お前知らないだろうけど、車の写真見たらお前散々だったぞ!」って。だけど俺「気分いいよ、すごく調子いい。たぶんツアーにもすぐ戻れるさ。」って言ったんだ。全然そんな事なかったんだけどね。(笑)


車を運転していたのですか? 事故について教えてください。

R: Spinnの家まで車を運転していたら後ろから突っ込まれたんだ。それでその衝撃で押されて反対からやってくる車に突っ込んで、だから両サイドから当てられたんだな。


その時の写真をみてどう思いますか?

R: マジで今生きている事が信じられないよ。さっきも言ったけど、ここにいられて本当に恵まれてる。たぶんホントはあの事故で助かるはずじゃなかったんだ。正直言ってあれはWake-Up Callだったんだと思う。いつあんな事が起こるかなんて誰にもわからない。あれは朝8時だったし、ツアーをスタートするために空港へ向かう途中の事だ。いつだって起こりうるんだよ。たぶん。わかんないけどね。俺はここに入れて唯々嬉しいよ。それが全てだ。ほんと散々な目にあったけど、たぶん2度目のチャンスを得たんだ。


Rashadは前もこんな感じでした? こんな感謝の気持ちで溢れていました?やっぱり変わりました?

R: Spinnに向かって)俺変わった?(笑)

S: うん。より良くなったよ。(笑)だけど事故が彼をそうしたとは言い切れないな。それまでの俺達からステップアップさせる様な事やそれまでの自分達を変えるような物事は俺達の周りに沢山あるからね。むしろこうなるには遅すぎだよ。俺達には背負っている物があるし。


家族はいますか?

R: 息子が一人。

S: 俺はもうすぐ生まれるとこ。

R: 俺達にも生活はあるからね。みんな俺達の事を所謂派手な人生を歩んでいるように思っている。だけど事故が生き方を変えたよ。そしてもっと真剣に取り組みたいって思うようになった。いつまたあんな事故が起こるかわからないしね。誰だってそうだ。本当にアレは俺にとってWake-Up Callだったんだよ。「おい、集中して自分のやっている事を続けるんだ。舵を取ったなら自分達で動かせなくなるまで続けるんだ。」って。そして楽しんで人生を歩むんだ。ってね。


舵を取り続けられるまで続けるんだって言うのは面白いですね。なぜならとても長い時間が経ていますが、あなた達にとってこれはまだ始まりのようですから。

R: 俺もそう思うよ。俺が見ている事は間違いなく、これから更にデカくなっていく物語の、ほんの始まりにしか過ぎないからね。




Special Thanks to Jessica Hopper, Kizaam & D.J. Kuroki Kouichi



posted by BootyMusicJapan at 14:53 | TrackBack(0) | Interviews | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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